タルパとは何か、訓練とは何か【8000字超え】

何がタルパで何がタルパではないのか?

これには多くの意見があり、未だタルパの定義はできていない。

 

タルパの定義がはっきり定まらない背景には、「人によって捉え方が異なる」ことは当然関係しているが、それだけでなく「はっきりさせたい人と曖昧のままにしておきたい人がいる」という問題もある。

 

私は以前、タルパの定義に関して『曖昧・寛容派』だった。

しかし考察を進めていくうちに、以前は軽視していた"曖昧であることで生じる問題"についても考えるようになり、それを解決するためには定義を定める必要性があるのではないかと考えた。

 

 

本来タルパとはどういうものか

タルパについての定義は現在揺れているが、もともとはある条件に合ったものを「タルパ」と呼んでいたと考えられる。

そこでタルパの歴史について遡ってみる。

 

 

『月刊ムー』1988年5月号でタルパ(=トゥルパ)が紹介される

このリンクから実際の記事を読むことができる。

tulpa2.com/?mu

 

人間が見ている世界が幻影だと証明するために、「幻影」であるタルパが自分にも他者にも見えるようになるまで訓練をする。

タルパの創造に成功すれば、現実が幻影であることが理解できる(これを覚醒と呼ぶ)という内容だ。

 

 

月刊ムーで提案された訓練法

あくまでも一人の事例であるため、それはトゥルパの創造に成功した全ての人が実践した訓練法とは限らないということを頭に入れておいてほしい。

 

①無表情のタルパの顔(の絵や人形など)を見つめ、質問した時に肯定的な表情に感じられるか否定的な表情に感じられるかを見分け、それを極めることによりタルパの反応を理解することができる。

②「こういう場合、タルパはこう答えるだろう」とまずは自問自答し、それに慣れてくることによりタルパ側から話し掛けてくるようになる。

 

本質から考えるタルパの創造方法

与えられた数少ない、「チベット密教のトゥルパとはどのようなものか」という情報から本質的にはどういうことに成功すればオート化できるのかを推測してみた。

 

タルパを創造・視覚化するためにはまず「現実=幻影」と捉えることから始まり、その幻影に幻影であるタルパを重ね、「タルパ=幻影=現実」つまり「タルパ=現実」とすることが必要なのだ。

月刊ムーに書かれていた文章とは工程が逆であるが、現実にタルパを投影させるためにはまず現実とタルパを同じ「幻影」として扱うことが必要ではないだろうか。

 

・「現実は全て幻影である」というイデア論的なものを信じる

・「タルパは現実である」と見なした上で投影を行う

この2つがタルパを創造するための条件だと考える。

 

「タルパを自分が意図しなくても変化していく現実世界の一部とすることができればオート化する」という考えである。

タルパを現実と同じものとして扱うことが必須である。

 

 

タルパコピペで創造法・訓練法が紹介される

以下がそのリンク。

tulpa2.com/?copipe

 

これは、月刊ムーの内容を要点取りし、かなり分かりやすく簡略化されたものである。

良く言えば簡単、悪く言えば内容が薄い。

 

タルパコピペで省かれた内容

「現実を幻影として考える」という本質

タルパのみに焦点を当てており現実世界の見方を変えるという内容は全く書かれていない。この書き方であると、「タルパは現実である」という本来の訓練上の考え方から大きく外れた「タルパは空想である」という解釈が広まり兼ねない。

本来オート化の成功とはタルパを現実と同一視できることだが、その記述がされていないことで「統合失調症の危険があるのであくまでも空想の範囲内とし、現実とは区別しましょう」といった注意を喚起する者が現れ、オート化がまだできていない範囲内でオート化のランク付けがされ、完オートでないものが「完オート」と呼ばれるようになった。

 

本来オート化したタルパは現実として扱われるのだ。タルパをオート化させるというのは最終目標として「タルパを現実と区別できないようになる」、つまり統合失調症のような症状を出すことを目標にしているのだ。

ただそれを「統合失調症」と呼ぶのか否かは、統合失調症の診断基準には当てはまるものの有害ではなく治療を望むものでもないので本当に苦しんでいる患者に失礼だという倫理的な面からタルパのオート化を統合失調症と同じ扱いをすべきでないと私は考える。

 

タルパは他者にも見えるという前提

この情報が削ぎ落とされたことにより、「タルパは他者から見えるか?」という質問に対して多数が「他者から見えるはずがない」と考え、そこから「タルパは自分にしか見えない」と本来のタルパの定義とは真逆の内容が広まった。

 

本来タルパは自分はもちろん他者にも見えた所で視覚化したと呼ばれる。

ここで問題が生まれる。その「見える」は視覚的な「見える」(=全員が見ることができる)か心の目で「見える」(=限られた人のみが見ることができる)のか?

世の中にはタルパを信じる者信じない者がいる。タルパを信じない者にタルパは見えるのか?

その答えは「No」であると言える。なぜなら、タルパを信じていない人はタルパを見るために必要な『覚醒』ができていないからだ。

では他者とは誰を指すのか?

これは「他の覚醒をした人達」ということだと私は考えている。タルパを生み出した人は視覚化のために様々な訓練をしてきてその末にやっと見えるようになったのにも関わらず、訓練をした人から見えるようになったら何の訓練もしていない他人全員にもその人のタルパが見えるようになった!つまりタルパを作らない人は訓練無しでタルパが見える!というのは明らかにおかしい。

なので視覚化したタルパは「覚醒をした人全員が見られる」という事だろう。

視覚化の得意な人は他人のタルパでも作った本人よりも早く見えてしまうかもしれない。

視覚度はタルパ単位ではなく見る人単位で変わってくるものではないかと考えている。

 

 

タルパコピペはあくまでも月刊ムーを個人が解釈したものなので、本格的にタルパをオート化させたいのならタルパコピペではなく月刊ムーの方を見るべきだ。

タルパコピペは月刊ムーの"解釈"であり、現在出回っている訓練法はタルパコピペから解釈されたもの、つまり"解釈の解釈"となっている。

解釈に解釈を重ねれば誤解が生じてもおかしくない。

本当のことを知りたいのなら解釈ではなく元になったものに目を通すべきだ。

 

オート化ができない原因に「タルパは空想だ」という誤解が大きく関わっているのではないかと私は考えている。

 

 

トゥルパとネットタル

 トゥルパとネットタルパは違うものである。

『トゥルパ』とはタルパの元ネタになったチベット密教のタルパそのものを指し、『ネットタルパ』とはそれから派生した、如何にトゥルパに近いものを作れるかということを目標にし考え出された訓練法に沿って作られたタルパを指す。

 

両者は違うものだが、違いは少なくすべきだと考える。

もともとネットタルパが広まった背景として「チベット僧のようにタルパを作りたい」というトゥルパに対する憧れがあるのではないかと思う。

その憧れを実現するためには、なるべく原型を保つべきではないかと考える。

そのためにはタルパはトゥルパに近い訓練法で生み出されたものでなければならない!

 

原型から離れてしまえばしまうほど生まれるのはタルパから遠く離れた別のものになってしまうからだ。

トゥルパから派生した全く違うものをタルパと呼び、その違いはIFに近くなっているのでそれが原因でタルパとIFを混同する人が現れたのではないだろうか?

タルパはどんどんトゥルパから離れて行きどんどんIFに近くなっているという問題を解決すべきだ。

 

 

IFとタルパの違い

IFと区別するために…

・IFは「Imaginary」という言葉の通り空想であるが、タルパは現実にすることを最終目標としている

・IFは脳内や心の中から生まれ、外に出たとしても保持者の近くにいるが、タルパは完全にオート化すると生み手から離れた所で独立行動をする

ここで「タルパは訓練を必要としてIFは訓練を必要としない」という項目を書かなかったのには訳がある。IFを持つと自覚する人の中には"訓練をしていて生まれた創造型タルパなのに訓練をしたことに気付いていない"人がいるからだ。その人は「訓練をしている」部類に入るのだが、自覚がないと自分を「訓練をしていない」部類に当てはめてしまい誤解が生じるので、訓練の有無について語るよりはまず先に「訓練とは何を指すか?」を明らかにしよう。

 

 

何を「訓練」と呼ぶか

前項『月刊ムーで提案された訓練法』を思い出してほしい。

そこには無表情の顔から感情を読み解く訓練法と自問自答でオート化を図る訓練法の2通りがあった。

前者をしているタルパーは少なくとも私は見たことがないので、後者について話をする。

 

IFや発生型タルパを持つ人はなぜその彼らが話し掛けて来れたのか考えてほしい。

そのために何らかの働きかけをして練習したか?

例えば、なりきりアカウントを作って対話させたり、彼らの元になったキャラクターと話す妄想をしたり……

これらは訓練である。

もしあなたがそういうことをした結果として向こう側から話し掛けて来るようになったのなら、「訓練も何もしていないのに」は当てはまらない。無意識のうちに訓練をしている。その思念体は創造型タルパだ。

 

本当に『発生型』と呼ばれるのは自問自答も妄想も何もしていない状態である時ふと現れた──例えば激しく落ち込んでいる時に出会ったことのない誰かから励まされたり──そういう存在が「無意識に現れた」と呼べるのである。

これは「邂逅」と言えるので邂逅型と間違いやすいが、自分から誰かに会いに行こうとして偶然その人に出会ったというのが邂逅型、会う気も何もなく向こうが突然現れたのなら発生型である。

 

また、IFは作ろうとして作るものではない。作ろうとして作ったのなら、その作るまでの過程が創造型タルパの訓練に当たるからだ。

 

 

依り代について&人工精霊との違い

タルパに本来依り代は存在しない。

いつ誰が依り代の概念を持ち込んだのかは不明だが、はじめは存在しなかった。

海外にもタルパコミュニティがあるが、依り代を持っているタルパーは日本だけだ。

 

おそらく、日本古来の「物には霊が宿る」という宗教的な考えがタルパと結び付いて「タルパも霊のような存在だから宿る場所を設けよう」と考え、依り代の概念が生まれたのだろう。

 

はっきり言うが、タルパは本来依り代を持たないものだ。

もし依り代という概念を適用させたいのならそれはタルパを作っているはずでも実質的に作っているのは人工精霊だ。人工精霊をタルパと誤解している。

 

依り代がある→人工精霊

依り代がない→タルパ

 

本来の区別としてはこうである。しかし、人工精霊をタルパと誤解した人達によって「タルパは霊である」と扱われたり「依り代の浄化」などという本来のタルパとはかけ離れた訓練法が提供されていたりする。これは問題だ。

タルパを霊だと主張する人達、タルパは幻影であり霊ではない。もし霊ならば、それはタルパではなく人工精霊である。

 

まとめると、

タルパは「幻影」→姿や形など外観的なものをメインとしている。見えることが前提とされる。

人工精霊は「霊」→魂など精神的なものをメインとしている。可視不可視は重視されず"そこにいる"ことが重要である。

 

 

人格・解離性障害と責任について

何とも恐ろしいことに、思念体が解離性同一性障害の人格として扱われていることがある!

両者は似て非なるものだ──いや、似てすらいない。

 

大きな違いとして、「記憶があるかないか」がある。

もし解離性同一性障害なら、他の人格が出ている時の記憶はない。これは「覚えていないはずだ」と確信できるようなものではなく、他人から指摘される、又はこの時間に何をやっていたのか思い出そうとしない限り覚えていないこと自体に気付いていないのだ。

また、多数の人格が同時に出ることはあり得ないのでメモなど記録を残しておかない限り、他の人格が何を考えているのか分からないのだ。つまり人格同士で会話していると言った時点でそれは人格とは言えない

 

解離性障害の中でも、記憶があるものがある。それを『内在性解離』という。

内在性解離が起きる要因としては、辛い出来事を自分から切り離すために自分とは別の人格を意識的に作り、その記憶を自分ではない他者のものとして"扱おうとする"ことが挙げられる。

つまり内在性解離の場合、「忘れたくても忘れられない」「切り離したくても切り離し切れない」のだ。

 

思念体の起こしたことについて「それは私のしたことではない」と責任を負いたがらない心理は内在性解離と非常によく似ている。

それが「そうしたい」という願望からではなく「そんな訳がない」と確信している場合、倫理的には責任感の欠如した好ましくない思想であるが、訓練の面から言うと思念体を完全に独立させられた立派な人なのだ。

本当に思念体を独立させたいと望むのなら、それが成功した時に自分が無責任であると他者から非難されることを覚悟しなければならない。

また、「責任感を持って、ほどほどに」と考えている人の思念体は永遠にその人の一部であり独立させるのは不可能、完オートよりも手前に限界があると覚悟しなければならない。

訓練とはそれほど過酷なものであるのだ。

 

 

タルパの分類

現在「タルパ」と言われているものには「◯◯型」という分類がある。

その分類について本当にタルパと呼べるのか1つずつ考えていこう。

 

創造型タルパ

【意図的に】【作った】タルパ

└タルパを作ろうと計画し、訓練を積み重ねていき未オートからオート化させていくタルパ。

チベット密教の『トゥルパ』を元ネタにした、『ネットタルパ』の元祖である。

 

これは間違いなくタルパである!……と言いたい所だが、人工精霊との違いを思い出してほしい。

創造型タルパを持つ人の中には依り代を持つ人が多い。

依り代を持つのはタルパではなく人工精霊だ。

もし依り代があったなら人工精霊、無ければタルパである。

 

変遷型タルパ

【意図的に】【出会った】タルパ

└タルパでないものに対して何らかの働きかけをすることによりタルパになったもの。

 

その「何らかの働きかけ」による。それが『訓練』に当てはまるものならタルパと呼べる。「今までIFと呼んでいたけどこれからはタルパと呼ぼう」などとただ単に呼び名を変えることは不可能である。呼び名を変えただけでタルパという扱いにはできない。

変遷型で注意してほしいのは「何らかの働きかけ」をする以前はタルパでないと言うことだ。その思念体が何年も前から居たとしても、タルパとしての年齢は「何らかの働きかけ」をした時がスタートになる。

 

 

発生型タルパ

【意図せず】【作った】タルパ

└特に何もしていないのにも関わらず気が付いた時には現れていたタルパ。

 

これはIFとの区別が難しい、というか個々が頑張って区別しようとした解釈がいくつかあるのにも関わらずどれも決定的な違いを証明できないので、IFと同義語である。

そのため、発生型タルパはタルパではなくIFである。

そもそもタルパは訓練で生み出すので訓練が無ければタルパではない。

 

邂逅型タルパ

【意図せず】【出会った】タルパ

└誰かしら思念体に会おうとした時に偶然出会ったタルパ。

 

生まれの面のみで考えていくと、既存のどの分類とも言えないことが分かる。

はじめからオート化しているという点で、ゼロから訓練を始めてオート化させていくタルパとは違う。また、出会った世界が"変性意識や精神世界"であり"現実"ではない場合が多いのでその点でもタルパとは違う(タルパは現実に投影させて作る)。

スピリチュアル的な体験で出会うことが多いので、空想とは違う力が働いたことにより出会ったと考えられる。よってIFでもない。

人工精霊の「人工」には「作った」という意味も含まれるが作った訳ではなく出会ったので人工精霊でもない。

 

この部類の生まれ方は特殊でどこにも当てはまらないため、「これからどうしたいか?」で分類を決めるべきだ。

まず扱いについて。幻影か?空想か?霊か?と聞かれた時に居場所と最終目標を考え最も近いものを考える。

幻影→現実に投影された存在。現実と同一視を目指す。主な居場所は現実界

空想→想像により生み出された存在。非現実の範囲に留める。主な居場所は心の中。

霊→自分自身とは別の外部の力により動かされている魂。主な居場所は依り代。

 

これにより幻影→タルパ、空想→IF、霊→人工精霊と扱う。

 

生誕型タルパ

└タルパとタルパー、又はタルパ同士の間に生まれたタルパ。

 

まず考えてほしいのが「どのようにして生まれたか?」

子供という設定にして、もしくは計画的に妊娠をさせ、出産までに訓練をしてオート化させたのならタルパ。

いきなり「タルパが妊娠した!」「生まれた!」となったのなら予期せぬ出会いなのでIF。

タルパからIFが生まれることはある。

時々「タルパのタルパ」という言葉を聞くが、タルパ自身が訓練をしていないのなら「タルパのIF」である。

 

挿入型タルパ

└ぬいぐるみや人形などに魂を吹き込むことにより生まれたタルパ。

 

これは「どう扱うか?」によりIFか人工精霊かの二択に分かれる。

ぬいぐるみや人形自身を思念体と見なし、その思念体はぬいぐるみや人形の姿で行動する(着ぐるみのように)→本来自発的に動かないぬいぐるみや人形を動くと空想したことから生まれたのでIF

そのぬいぐるみや人形は依り代的なものであり、思念体の本来の姿ではない→人工精霊

 

分かりやすく言えば、

思念体の姿=ぬいぐるみや人形→IF

思念体の姿≠ぬいぐるみや人形→人工精霊

ということになる。

 

 

結局「タルパ」とは何?

・現実に投影して見るもの。基本的に心の中ではなく体の外にいる。また、保持者の一部ではない(IFや人格との決定的な違い)。

・視覚化させる必要があり、視覚化できていない場合は訓練を行う。最終目標は「現実をタルパと同じ幻影として見ること」であり、現実世界の見方を変えない限り視覚化はしない。

・完オートを目標にオート化の訓練を行う。完オートすると保持者から独立して行動し、保持者が意図しない行動を取ることがある。独立すると自分で考え自分で行動できるようになるため保持者の補助は不要とし、時には保持者と別れることもある(「タルパは一生もの」というのは間違っている)。というか、目的を果たした時に別れがある。また、保持者から見えないほど遠くで活動することも可能である。

・依り代を必要としない(人工精霊との決定的な違い)。

 

 

タルパの分類は「創造型」「変遷型」の二択にしよう

ここで「タルパである」と定義されたものを持つ人達の大きな違いといえば"生まれ方"である。

タルパを分類するための質問は1つにしよう。

 

そのタルパは生まれる前に別のものとして存在しましたか?

「別のもの」の中にはIFや夢の中で出会った人はもちろん、版権キャラや創作キャラであった場合も含まれる。

タルパになる前の「別のもの」があれば変遷型、はじめからタルパになるために作られたのなら創造型だ。版権タルパは全て『変遷型』として扱う。

 

両者を分ける理由として、変遷型ははじめから外見や性格が決まっているので比較的オート化がスムーズで、創造型ははじめからタルパとして作るので設定が決まるまでに時間がかかるというものがある。

また、創造型の場合は意図しない性格になっても受け入れられることが多いが、変遷型の場合は元の性格から外れた性格になると元の性格に戻すべきかこのまま見守るべきかで迷うことが多い。

両者には「最初の理想像が可変か不変か」という大きな違いがある。

 

 

そもそも何の分類に入るのかすら分からない?

そんな時は、いくつかの質問にYesかNoかで答えてほしい。

 

Q.1 依り代はありますか?

ある→人工精霊

ない→Q.2へ

 

Q.2 より近いのはどちらですか?

常に体の外に存在し、現実世界と重ねて姿を見る。はっきりと姿を見るために最終的には現実の一部として扱えるようになりたい。自分の意思に頼らず独立行動ができるように練習をする。他者からも存在すると認識されたい。→タルパ

脳内や心の中に存在し、必要に応じて外に出る。自分の一部分を人格化したもの、または自分の理想の話し相手であり、自分の意図しない行動は望まない。自分と共にある存在であり、自分がその存在を信じれば「存在する」と言える。→IF

 

 

ここで大まかに『タルパ』『IF』『人工精霊』と3つに分類したが、思念体の種類は非常に豊富である。

例えば、IFの中でも自分の理想像をモデルにしたのなら『ハイヤーセルフ』や『エターナルビューティー』などと呼ばれる。タルパでも召し使いのように主人に仕える役割を果たすのなら『Servitor』、人工精霊でも複数人により生み出されたのなら『Egregore』という扱いになる。

 

便利な言葉として、『Varelser』という表現がある。『Varelser』とはスウェーデン語で「確かに存在するのだが何と言い表したら良いのか分からないもの」という意味である。「やっぱり、自分の思念体は既存のどれにも当てはまらない気がする」と感じる場合に最適の言葉だ。

 

 

最後に

これはあくまでも個人の見解であるが、ここから各思念体の定義を考え直す機会が生まれたら良いと思い、この記事を書いた。

曖昧な定義の言葉が同義語のように使われていては、言葉の違いがある意味がない。

 

「生まれ方」「捉え方」「最終目標」によって同じ思念体でも関わり方は随分変わってくるのだから、皆には「はじめはどうだったか?」「なぜ曖昧になってしまったのか?」を今一度考えてほしい。

 

何でもかんでも『タルパ』と呼ぶことによって起こる混乱を無くすためには、違いを理解し多種多様な思念体の呼び名を広めてくれる人が増えてほしいと願う。